1994年3月30日、マレクラ島北部のワラ村のイヴォン・マレッレ氏は以下をビシュラマ語で語り、著者が記録した。
私の従軍経験は、1942年にブッシュマン・ベイの英国政府の徴兵官アダム氏に言われて陸軍に入隊したことに始まる。我々の任務は第二次大戦の準備だった。二人のオーストラリア兵、マンジェロー軍曹とグッドイヤー軍曹が我々の訓練にあたった。我々はポートビラで行進の仕方や小銃の取扱いを習った。
我々はソロモン諸島まで行くものと思っていたが、行き先はサント島のビッグ・ベイ止まりだった。英国政府のボリンダ号という船に乗せられ、ビッグ・ベイで日本軍の監視にあたった。マレクラから、先ず110名がビッグ・ベイに派遣され、更に110名が第二陣として送り込まれた(注1)。我々は一人あたり100発の小銃弾と鉄兜を与えられた。防水シートや糧食、水などを入れた背嚢は非常に重かった。食糧にはビスケットや肉が入っていた。
(注.1 米軍の記録にも総員220名とあり、一致している。)
荷物が重く労働もきつかったので、我々は軍隊が好きになれなかったが、アメリカ兵とオーストラリア兵は好きだったし、英国兵もフランス兵も好きだった。私は戦争が怖くなかった。ビッグ・ベイに日本兵が来たら撃つ準備が出来ていたが、彼等は来なかった。我々が撃ったのは標的だけだった。
日本軍がソロモン諸島で阻止されると、我々はポートビラに戻った。そこでの新しい指揮官はオーストラリア人のレイド大尉だった。我々はアメリカ軍の為に働いた。鉈で森を切り拓いてバゥワー・フィールドの飛行場を作った。
戦争が終わり、全員がマレクラに帰った。私はオーストラリア国旗をもらい、今もそれを持っている。マスケット銃は錆びてしまったが。
イヴォン・マレッレ氏が入隊した部隊について、ポートビラのリース・ディーコンは1994年7月11日にこう書いている。
ニュー・へブリデス防衛隊は、戦時中の二人の弁務官によって組織された現地軍だった。部隊は地元で集めた義勇兵で組織されたが、その大部分がマレクラ島出身者だった。オーストラリアから派遣された分遣隊が現地軍の訓練にあたった。現地責任者は故アーニー・レイド少佐、彼の2-i-C(副官?)はジム・ランコン大尉だった。下士官が数名いた。
彼等の任務は沿岸警備で、日本軍が上陸した場合に、日本の民間人を追放したり、塹壕を掘ったり、食糧の保存場所を確保することであった。この部隊はアメリカ軍到着以前の1941年12月に編成され、1945年に解散した。兵の大半は全くの無給であった。