大晦日の深夜に社寺に詣でる習慣はないが、13年前、中国の西安まで除夜の鐘を衝きに行った。それまで中国とは無縁だったが、偶々仕事上で多少の係わりが出来て興味が生じたところへ、玄奘三蔵ゆかりの大慈恩寺で重要文化財級の梵鐘を衝くという、特別企画ツァーに誘われたのである。
「西安」はいにしえの「長安」。奈良・平安時代の日本がお手本にした唐の都で、遣唐使や学僧が半年がかりの危険な旅をした。無事に往復できた人は半数もいなかったというが、今は直行便で4時間。拙宅から京都へ行くのと違わない。隣国との時間的な距離感は著しく縮まったが、政治的な距離感はかえって遠ざかったような気がしないでもない。
中国人の反日感情を気にする人がいるが、日本人の反中国感情も決してひけを取らない。だが、世界を見渡せば、隣国との関係は多かれ少なかれギクシャクしているのが常態で、いちいち大げさに騒ぎ立てるのはどうかと思う。中国政府が反日感情を煽っているとの説もあるが、小役人のハネ上がりはともかく、中国トップの政治感覚がそれ程幼稚とは思えない。何れにせよ、憶測が生む感情的な不信感ほど無用のものはなく、出来るだけ仲良く、という隣人関係の原則をお互いに心掛けるしかない。
経済力に伴って国際社会での立場が強まるのは必然で、中国は青年の勢いで動きまわるだろう。利害のぶつかり合いの中で「落としどころ」に持ち込むのが外交だが、日本は経済規模で世界2位にのし上がったものの、国際政治力が伴わぬまま、全身マヒの高齢者になったようだ。軍事力の制約を悔やむ人がいるが、日米の国際分業は日本の選択でもあって、軍事と外交は米国に任せて商売の方を取り、それはそれで大成功したのだから、今さら文句は言えない。米国の分業相手が日本から中国に移ったらどうするのか、日本はハラを据える時ではあるが。
西安に関連した現代史のエピソードがある。1936年、八路軍は内戦中の国民党軍と「抗日」の大義で「国共合作」し、西安が両者接触の場になった。仇敵の毛沢東と蒋介石の駈け引きは三国志さながらだが、「大連合」で消耗を避けた毛沢東の深謀遠慮が10年後の新中国樹立の勝利の基になる。激烈な歴史を踏まえたリーダーのしたたかさ・懐の深さは、穏やかな歴史しか持たぬ島国の民の想像力を超える。
大慈恩寺は、後に唐の第3代皇帝高宗となる李治が、亡母追善のために648年に建立。645年にインドから経典を携えて帰国した玄奘三蔵は、第2代皇帝太宗の政治利用に振り回されたが、太宗→高宗の践祚を機に、大慈恩寺に翻訳院を設けてもらい、経典漢訳に専念することが出来た。翻訳作業は大数の僧を動員してのチーム作業で、公度僧だけでも300人を擁した大慈恩寺は好都合だった。
一筋縄でゆかなかった太宗に比べ、軟弱な高宗は玄奘の意のままになったようで、経典や仏具の保管場所に仏塔の建立も許され、652年に大雁塔が完成した。当初はインドの塔婆に似せた5層の塔だったが、武則天女帝の代に10層に増築され、その後の戦乱で上部が崩壊し、現在の7層(全高64m)になった。大慈恩寺の伽藍は唐代末に焼失したが、煉瓦と土で造られた大雁塔は、長安の面影を今に残す唯一の建物となった。
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大晦日の夜、ホテルで早目の年越しソバで腹ごしらえをして、11時に大慈恩寺へ。本堂で大晦日の法要が始まっていた。中国語のお経は音楽的な流れを感じる。法要が済んで鐘楼前の広場に集合。参列者は我々のツァー30名と主催者の西安市関係者で、近所の住民らしい姿はない。大晦日の鐘衝きは慈恩寺の年中行事ではなく、我々日本人観光客の為の特別行事だったようだ。
大慈恩寺の梵鐘は12世紀末に金の章宗が鋳造させたものらしい。石造りの鐘楼に納められて全容は見えないが、直径2m近い大鐘。日本の梵鐘は肉厚の青銅製で、撞木で衝くと「ゴ~ン」と腹の底に響くが、大慈恩寺の鐘は鉄製で、木槌で叩くと「コン」とくぐもった音がして「ありがた味」は薄い。鐘の音に人生の奥儀を感じたりするのは、日本人特有の感性かもしれないが。
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大慈恩寺で訳経に没頭した玄奘だが、高宗の「贔屓の引き倒し」が煩わしくなり、長安から150km離れた玉華宮に居を移して訳経を続けた。晩年の玄奘はインドで罹患したマラリアと思われる病苦に苦しめられ、664年に62歳で入寂。遺体は長安郊外の川のほとりに埋葬されたが、気の毒に思った高宗が景勝地の高台に改葬して興教寺を建てた。玄奘の遺骨を納めた舎利塔は唐代末の戦乱時に盗掘され、遺骨は行方不明になった。現在の舎利塔は中華民国の時代に再建されたものというが、それなりの雰囲気は保たれている。
1942年、行方不明だった玄奘の遺骨が南京市で見つかった。発見者は占領中の旧日本軍。小さな石棺から出て来た頭蓋骨が、副葬品と墓誌から玄奘の遺骨と分かり、日中で遺骨の帰属が争われたが、分骨されて一部が日本に渡り、今はさいたま市の慈恩寺に祀られているという。その内に中国から返還要求が来ないとも限らない。
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中国の古代都市は、ヨーロッパの都市国家と同様、城壁ですっぽり囲まれていた。日本では「城内」は中枢機能に限られ、都市空間は武士の住居を含めて「城下」だったのと対照的。この違いは地理的条件だけでなく、統治思想にも関係するような気がする。
長安も都市全体が強固な城壁に囲まれていた。現在の城壁は、唐時代に築かれた城壁を14世紀の明の時代に補強したもので、東西2.6km・南北3.4kmの長方形で、延長12kmに及ぶ。城壁の高さ13m、上部は幅14mの平坦な道路状で、有楽町近辺の首都高速を連想させる。東西南北に壮大な門が築かれ、西門(安定門)はシルクロードの起点。城内に入ってすぐの「イスラム通り」に面した清真大寺は現役のモスクで、シルクロード交易の名残りを感じさせる。
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広い国土を「北京時間」で統一している中国には時差がなく、内陸ほど日の出の時間が遅くなる(西安では1時間遅れくらいか)。元日の朝、日の出と共に外に出てみると、町では既に正月行事が始まっていた。赤旗を掲げて集会に行く職場組織、赤いユニフォームで太鼓を打ち歌い踊るオバサン歌舞団、軍楽隊の演奏で踊る少女グループなどは、いかにも共産中国らしいが、城壁の上でコマ回しのワザを披露するオジサンや、ヨガのパフォーマンス老人などの個人芸は、のどかな下町風の正月風景である。
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正月を旧暦の春節で祝う中国では、1月1日は「普通の祝日」だが、商店街が「買い初め」で賑わう光景は、小生が中学生だった昭和30年頃の地方都市を思い出させた。昨今の中国沿岸部の経済発展は驚異的だが、内陸部は取り残されているという。13年後の今、西安はどんな様子なのだろうか。
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唐の時代から遡ること8百年、紀元前221年に秦の始皇帝が中国を統一して皇帝号を称した。司馬遷が「史記」に「声は豺狼(ヤマイヌ)の如く、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主」と記したように、「焚書・坑儒」などの虐政を行った暴君とされ、評判は芳しくない。晩年は不老長寿を望み、不死の薬を求めて徐福を蓬莱国に送った。その「蓬莱国」は日本だったという。弥生中期(卑弥呼より更に4百年前)の日本が「仙人の国」と思われていたことに興味が湧く。
始皇帝は「公共事業の祖」でもあった。万里長城、道路網、灌漑などの整備事業はともかく、阿房宮、陵墓、兵馬俑などの個人的濫費は国を疲弊させ、始皇帝の死後4年で秦は崩壊した。その桁はずれのスケールは「兵馬俑」で実感出来る。
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西安の北を流れる渭水の流域は咸陽原と呼ばれ、前漢時代(BC206~BC8)の皇帝の陵墓が並ぶ。この時代、皇帝は位につくと翌年から自分の稜の造営を始めるのが慣例で、毎年国富の1/3を陵墓造営費に費したという。BC141年から55年間皇帝の座にあった武帝の陵墓(茂稜)は、最も大規模なものになった。
茂稜の近くに武帝の妃の弟、霍去病の墓がある。若くして重用され、匈奴征伐に功績をあげた武将だが、24歳で病死した。死を悼んで武帝が造らせた副葬品の石の動物像が展示されているが、荒々しい時代にしては愛嬌がある。
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高校の漢文で白居易の「長恨歌」を習った。唐の第6代皇帝玄宗(在位712年~756年)と楊貴妃の愛のエピソードを歌った叙事詩で、初めの方に「春従春遊夜專夜」の一行がある。「夜専夜}(ヨルハヨルヲモッパラニス)の個所で、教師が高校の授業にしてはいささか刺激的な解釈を加え、教室が湧いたのを思い出す。
玄宗は唐の絶頂期に善政を行って明君と謳われたが、息子の妻だった楊貴妃に溺れた(源氏物語の「桐壺」はこの史実を下敷きにしたらしい)。「夜専夜」のおねだりで楊一族を登用し、政道を誤って安録山率いる反乱軍の蜂起(安史の乱)を招いた。玄宗は楊貴妃を伴って長安を逃れたものの、軍を鎮めるために殺害し、それを嘆き悲しんだ。
長恨歌には「春寒賜浴華清池、温泉水滑洗凝脂」( 春寒い頃、華清池で湯あみをすると、滑らかな温泉の水が白い肌を洗う)の行もある。「華清池」は今も温泉が湧くリゾートで、発掘された楊貴妃の浴槽も観光の目玉になっている。
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