喜寿を過ぎて「断捨離」を心掛けているが、蔵書はなかなか捨てられない。思い入れのある本もあるが、積ン読になっていた本も少なくない。そんな中に開高健「ベトナム戦記」(1965)とバーチェット「解放戦線はなぜ強い」(1968)があった。米国のベトナム軍事介入は、ケネディ時代の1962年の軍事顧問団派遣に始まり、ジョンソン時代の1964年に直接戦争当事国になり、ニクソン時代の1973年のパリ和平まで続いた。上の2冊が出たのは米国が泥沼に踏み込んだ頃で、在日米軍が後方基地の役割を担った日本でも反戦運動が起きた。新入社員時代の小生、米国がらみの部署に就いて気懸りで買ったと思うが、学生気分の余韻もあったかもしれない。チョイ読みで放り出して半世紀が経ち、ベトナムの旅を機に改めて開いたら、褐色に変色した頁が恨みっぽく語りかけて来た。
バーチェットはオーストラリア人のジャーナリストで、南ベトナム解放戦線(ベトコン)と行動を共にして取材し、米軍の「大本営発表」を痛烈に批判した。その筆致からベトコンのスポークスマンと揶揄されたが、結果は彼の予測どおり、米軍は圧倒的軍事力を総動員しても解放戦線に勝てなかった。バーチェットの言う「解放戦線の強さ」を乱暴に要約すると、解放戦線は「軍事的訓練より政治的訓練を優先」させ、「明解なイデオロギーに裏付けされた政治と軍事が一体化」し、「戦場でも階級を越えて自由な討議がなされる民主的な組織で、戦果によって階級逆転も日常茶飯」だが、戦場では「史上どんな戦士にも、このような高い水準の士気と勇敢さに達したことはなかった」と絶賛する。読み方によっては「革命教本」になるが、この本を出版したのが読売新聞社だったことにも、半世紀の時の流れを感じる。
開高健は「日本のヘミングウェイ」を自称した芥川賞作家。サントリーのCM作りで磨いたキレのある文章は、集中力の続かない喜寿読者でも一気に読める。開高が朝日新聞の臨時特派員として南ベトナム軍を従軍取材したのは、1964年12月~65年2月の3カ月で、帰国直後の3月に「ベトナム戦記」を出した。米軍が本格参戦したばかりの時期で、上記のパーチェットの本が出る3年前、戦争終結(パリ和平=米国敗戦)は8年先だが、開高は早くもこの時点で「アメリカは勝てない」と喝破した。その根拠を乱暴に要約すれば、「米国のひとりよがり」(思い込み)ということになる。
米国は「インドシナ半島の共産化」を食い止めるべくベトナム内戦に介入し、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)を「共産ゲリラ」と見て掃討にのめり込んだ。当初は南ベトナム軍の「軍事顧問団」だったが、生徒のあまりのグータラにしびれを切らし、1964年8月のトンキン湾事件(北ベトナム哨戒艇が米海軍駆逐艦に魚雷を発射。後に米軍の自作自演と判明)を理由に北ベトナム空爆に踏み切り、50万の戦闘部隊を派兵して戦争当事国になった。B52戦略爆撃機や原子力空母まで総動員したが、やればやるほど「護ってやっている」筈のベトナム人に離反され、ベトコン包囲網の中で「マイッタ」と言わざるをえなくなる。
開高は取材を始めてすぐ見抜く。ベトコンを駆り立てている原動力は、共産主義のイデオロギーではなく、ゼノフォビア(外国人嫌い)なのだと。ベトナムは中国に1千年、フランスに80年支配され続けたが、1941年にホーチミンが「ベトナム独立同盟会」(ベトミン)を結成、1954年5月に独立戦争に勝利してフランスを追い出した。ジュネーブ和平協定では選挙で統一政府を作る約束だったが、米国はホーチミンの人気を恐れ、1954年10月にゴ・ジン・ジェムを大統領に押し立ててベトナム共和国(南ベトナム)を作らせ、南部在住のベトミン残党の弾劾に走らせた。この傀儡政権の打倒を目指して1960年に南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が結成され、爾来米国はベトコンを目のカタキにする。開高が言うには、そもそも「ベトコン=コミュニスト」が思い違いで、米国がベトコン退治にこだわればこだわる程、全てのベトナム人を敵に回すことになると予言し、その通りになった。
バーチェットの言う「政治的訓練」は「マルクス・レーニン読書会」ではなかった筈。ベトナム人が独立戦争でフランス人を追い出し、「ベトナムの、ベトナム人による、ベトナム人のための政府」を作った、「米国人が2百年前にやったことを、ベトナム人もやれたのだ」と納得すれば、南のベトナム農民にも「フランスの次に来た外国人」を追い出す勇気が沸く。ベトコン兵士の「政治的訓練」はそれで十分で、兵士の家族や村人も命がけの協力を惜しまなくなる。ハノイのリーダーがマルクス・レーニンの「革命論」を学んでいたとしても、そのイデオロギーがベトナム農民を血みどろの戦いに駆り立てていると考えるのは、「イデオロギーの過大評価」だと開高は言う。
「左翼イデオロギー嫌い」の開高があの世でどう思っているか知らぬが、「外国人嫌い」が戦いのエネルギーだったとしても、それだけで「国を治める」のはムリで、ベトナムの建国と発展に「社会主義イデオロギー」が機能したと見るのが道理ではないか。「ベトナム社会主義共和国」は1945年9月2日の「ベトナム民主共和国」樹立から74年を経た。旧ソビエト社会主義共和国連邦(1922~1991)の69年より長命で、現存する社会主義国(朝鮮人民共和国、中華人民共和国、ベトナム社会主義共和国、ラオス人民民主共和国)の中で最長不倒を更新中。今のところ体制危機の兆候は見えず、世界で数少ない「安定国家」の一つと言えるかもしれない。
ベトナムの社会主義は「ソ連型」でも「中国型」でもなく、あくまでも「ベトナム型」。その基礎を築いたホーチミンは、1920年代にコミンテルン(国際共産主義運動)で活動したバリバリの革命家だが、当時の方針から外れて「民族解放」を重視したため、異端視されて中枢から排除された。第二次大戦が勃発し、ホーチミンはベトナムを実効支配する日本軍に対して中国と武装共闘するべく蒋介石にアプローチするが、共産化を恐れた国民党に捕えられて1年余り収監された後、1944年にベトナムに戻る。日本の敗戦直後に「ベトナム民主共和国」臨時政府を樹立して首相に就いたが、建国当時の閣僚15名中共産党員は6名で、1946年制定の憲法に共産党組織による国家指導の規定はなく、人権規定や私有財産権はフランス、アメリカの憲法に倣ったとされる。
ホーチミンはカリスマ的指導者だが、権力志向がなく、汚職・腐敗と無縁で、粛清にも手を染めなかったという。ベトナム戦争当時は70歳を過ぎて老境に入り、自らリーダーシップを執ることなく万事を集団指導に委ね、戦争中盤の1969年に世を去った。その後半世紀にわたって政権の集団指導に大きな混乱が見えないのは、ホーチミンの精神が今も生き続けているからかもしれない。今日のベトナムに古典的な「社会主義」のニオイは感じられない。「それもホーチミン路線の延長上だよ」と言われれば、ナルホドと思えるような気がする。
ファンシーパンから下山し、昼食を済ませて一休み。夕方になってサパ市街の散策に出かける。フランス植民地時代の避暑地だったサパは、フランスが撤退した時に徹底的に破壊したというが、半世紀余を経て国際観光地として再生中。山沿いのホテル地区のあちこちで建設工事が進んでいるが、道路は昔ながらの狭い坂道のままなので、開発が進めば交通渋滞の悪化が懸念される(我々が泊まった坂の上のホテルも、大型バスが入れなかった)。
サパの街でちょっと不愉快だったのは、観光客にまとわりついて小銭をせびる子供がいたこと。現地ガイドが「マジメに働かない親がやらせている。子供のためにならないから無視して」と注意すると、少し離れた場所からそれらしい親の視線が飛んで来たが、それなりの服装でホームレス家族には見えない。「社会主義の国にもあんな人がいるのね」という声も出たが、どんな体制でも倫理観のズレた人は居るもの。他の社会主義の国では、どこからか「公安」が現れて「不逞の輩」はすぐ御用になると聞くが、ベトナムではそれらしい姿を見かけなかった。
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往路はラオカイまで夜行寝台だったが、復路はバスで高速道路を走る。ハノイ近郊まで片側1車線で、高速の追い抜き競争に手に汗を握るが、運転手は慣れたもの。途中サービスエリアでの休憩を含め、3時間半でハノイに到着。
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ハノイ市内には、3日前に見なかった「米朝首脳会談歓迎」の3国旗や看板が立ち並んでいた。会談が4日後に迫っていたが、会談の場所や両首脳が宿泊するホテルはまだ不明。隠していたのではなく、本当に決まっていなかったらしい。
通常の首脳会談であれば、事前に事務レベルで周到な調整が行われ、落としどころを概ね詰めた上で正式会談を迎えるが、今回は二人の「お山の大将」が夫々勝手な思惑で唐突に顔を合わせただけで、お互いに譲る気もなく空手で別れた。中立国のベトナムが仲介役を演じるのを期待したが、そのチャンスもなく場所貸しだけで終わってしまい、ベトナムも残念だったことだろう。ドタキャンされた豪華ランチのツケを誰が払ったのかも、他人事ながらちょっと気になる。
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ハロン湾は1994年にユネスコ自然遺産に登録された世界的観光地で、石灰岩が隆起・浸食・水没して出来た3千の小島が作り出す景観は「海の桂林」とも呼ばれる。伝承によれば、中国がベトナムに侵攻した時に竜の親子が現れ、敵を破って口から吐き出した宝石が湾内の島々になったと伝えられる。
ファンシーパン山頂の「盛り場」状態に驚いたが、ハロン湾の雑踏もハンパない。湾内に大小の観光船が連なり、上陸して見学する観光スポットも人で溢れかえっている。自然を楽しむ「観光名所」でゾロゾロに出くわすと、小生はウンザリしてしまうが、考えてみたら、日本の富士山や筑波山も江戸時代からゾロゾロで、海の松島や宮島も同様。「みんな行くから自分も行きたい」のが「有名観光地」で、ゾロゾロがまた人気を呼ぶものらしい。
だが、「自然遺産」で肝心の「自然」が壊されたら修復が効かず、「観光地」としての価値は失われる。「自然保護」のコンセプトは19世紀に欧米先進国で生まれたもので、国家が保護地域を指定して経済活動を法的に抑制し、国家機関(軍隊や警察)が保護管理にあたる(日本は中途半端)。「自由市場ルール」最優先の「資本主義超大国」は、国家権力が自然保護に力を注いでいるのに、「社会主義」の国々が「市場原理」のなすがままに無秩序な開発に走るのは、ちょっと不可解な気分になる。
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朝一番に小舟に乗り換えての「洞窟くぐり」のプログラムが終わると、観光船がゾロゾロ連なって港に戻る。
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サービスエリアで昼食とお土産品調達を済ませ、ハノイ手前で高速道路を下りて「バッチャン」に立ち寄る。1千年の歴史を持つ陶器の村で、16世紀(安土桃山時代)に日本にも輸出して重用されたという。100軒ほどの陶器屋が軒を並べ、大型の立派な花瓶から日常使いの小皿、飾り物類など様々な商品が所せましと展示されている。我々が訪れた6階建ての店は上部が工場で、職人の工程をじっくり見学させてもらったが、「断捨離」モードの客のお買い上げはたいしたことなく、ちょっと気の毒だった。
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旅の最後は伝統芸能の水上人形劇の観劇。1000年前から農民のお祭りで演じられてきたが、11世紀頃に宮廷の娯楽となって、芸術的に練り上げられた。人形遣いが腰まで水に浸かって水面下から人形を操作する仕掛けで、繊細な表現はムリだがそれなりにダイナミックで、言葉が分からなくてもスト―リーは何となく分かる。ハノイに水上人形劇場が2つあって、我々が訪れたタンロン劇場は、毎晩5回の公演で400席ほどの客席が毎回満席になる人気の観光スポット。
この劇場は1956年にホーチミンが子供達のために建てた劇場を改装したもので、「ホーチミン劇場」と名付けても良さそうな気もするが、生前のホーチミンは飄々とした風貌どおりの人物で、英雄扱いを好まず、「忖度」を嫌ったという。死後にお札の顔にされたり、旧サイゴンがホーチミン・シテイに改称されたりしたのは不本意だろうが、「アメリカでも、建国者ワシントンが1ドル札の顔になり、首都の地名にもなった。ワシもこの程度のお役目は仕方がないかな…」と苦笑してヒゲをしごいているかもしれない。
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