20世紀後半、多くの小国が独立を果たす中で、シッキム王国は自らの意思で国を廃し、民主的手続きを経て隣国に併合される道を選んだ。こんな例は他に思いあたらない。
シッキム王国の歴史は、17世紀にチベットで宗派争いに敗れたニンマ派僧侶が布教先を求め、現在のダージリン、ブータンを含むヒマラヤ南麓に国を建てたことに始まる。先住民の反乱、王位継承の内紛、ネパールとの国境紛争などに追われて国造りのいとま無く、19世紀になると英国に諸事口出しをされ、あげくにダージリンを割譲させられた。1886年にチベット軍が越境すると英軍が撃退してくれたが、これを機に英国人顧問に国政を握られる。この時代に開拓労働力として大量のネパール人が流入した事情は、ダージリンに同じ。
1947年にインドが独立し、英国がこの地域から手を引くと、つっかい棒の外れたシッキムは再び混乱に陥る。王国を維持するかインドに帰属するかで、民族派とネパール系が対立したのである。1953年に国会が開かれ、武力衝突は避けられたが、民主的決着となればネパール系が数で圧倒し、1975年にシッキム王国は消滅、インドに繰り入れられる。
最後の国王となった12世(在位1963~1975)は、いささか素っ頓狂な御仁だったようで、公務よりも趣味のアマチュア無線に熱心だったのはともかく、後妻に日本のやんごとなき血筋の姫君をご所望なさった。そんな望みが叶う筈もなく、代わりに(?)22歳のヤンキー娘を妃にしたが、そんな国王を国民が慕う筈もない。1975年の国民投票で王国廃止が圧倒的多数で支持され、廃王は妃の実家の米国に渡ったものの、妃にも離婚され、1982年にニューヨークの慈善病院で寂しく没したと聞く。
シッキムの為政者は「当事者能力」を持ったことがなく、遂に国民に愛想をつかされた。隣国のブータンが、国王の強い指導力の下、政教一致と半鎖国で外国勢力の介入を防ぎつつ、伝統文化継承を基軸に国造りを進めたのとは対照的で、シッキムを「反面教師」にしたと思えないこともない。国民にとって望ましい政体は夫々の状況によって異なるだろうが、当事者能力を欠いた政府を戴く不安は、某国民も現在進行形で実感しているところ。この国は昭和初期、閉塞感と政党政治への失望から、国を挙げて狂気に走った経歴を持つ。80年後の今、改めて国民の成熟度が問われているように思う。
赤枠内が現在のシッキム州。中国(チベット)との国境線が長い。 (原地図:Google)
ツァー5日目、西ベンガル州のカリンポンからシッキム州のペリンに向かう。シッキムがインドの一部になって40年近いが、今も州境には国境に準じた検問所があり、旅行者はパスポートにシッキム入域のスタンプを押される。入域を制限する最大の理由は、中国との軍事緩衝地帯にある為だろうが、シッキム独立運動牽制の目的で税制や公共サービスに優遇的差別があり、シッキムへの人口流入を防ぐ目的もあるかもしれない。
州境から先は急勾配の山道になり、切り立った山肌に巾の狭い段々畑が刻まれ、山村の暮らしの厳しさが窺われる。
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冒頭、チベット亡命僧がシッキム王国を建てたと書いたが、僧侶が王位に就いたわけではなく、山中に点在するプティア族やレプチャ族を束ねて国を建てさせた、という意味。チベット仏教のルールに従い、プティア族の開祖ケ・ブンサの末裔を見出したという形式を整え、その人物を初代国王に祀り上げた。そのプロセスにレプチャ族の祈祷師も巻き込んだというから、建国時の統治策はそれなりに周到だったようだ。
「レプチャ族」で思い出したことがある。高校の図書室で見つけた安田徳太郎の「人間の歴史」で、この地方を旅した安田がレプチャの言語や風習が古代日本と似ていることに驚き、「日本人の起源はレプチャ」を論証する大冊を著したもの。当時から学術的には無価値と評されたが、高校生の「性知識欲」を刺激する効果は大で、受験勉強を放り出して読んだ。
小生も南太平洋のバヌアツに暮らして、日本との共通点に驚いた経験がある。単語(特に性に関連する)の相似は偶然としても、縄文土器とウリ二つの出土品を見たり、日本の伝承説話とそっくりなバヌアツ民話に出会ったりすると、「ひょっとして・・」と思いたくなる。だが、同じ種の生物が同じ習性を持つことを思えば、生物学的に一つの種である「ヒト」も、「同じようなことを考え、似たような行動をして当然」、と考えれば良いのかもしれない。
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標高世界1位のエベレスト(8848m)と2位のK2(8611m)をシッカリ撮るには、標高5千mを超える展望ポイントまで、命がけのキャラバンをせねばならない。その点第3位のカンチ(8586m)はまことに楽チンで、標高2千mの人里からでも全貌が望める。ダージリンからだとカンチまで直線距離で50Km以上あって、ド迫力の写真は撮り難いが、ペリンからは30km足らず。箱根から富士山とほぼ同じで、晴れてさえくれれば、手軽な望遠レンズでも「どアップ」が撮れる筈。
ホテルの庭先に三脚を据えて夜明けを待つが、カンチらしき影は見えない。5時48分、予想とは違った天空の一画が赤く染まった。望遠レンズを覗くと、雲の帽子をかぶっているが、カンチに違いない。光の回りが早く、周囲の峰々も次々に明るくなる。写真屋には気の抜けない一瞬一瞬だが、他に気が気でないことがある。出発が6時半で、皆さんは朝食の最中なのだ。やっと山頂の雲が退いたところで三脚をたたみ、食堂に走って朝食を掻き込み、チェックアウトして庭に戻り、バスが出るまで撮り続けた。
ペリンからガントクに向かう峠道で、シニョルチュ(6888m)が見えた。なかなか姿の良い山で、山頂に雪煙を上げている。バスを止めて臨時の野外トイレタイムにしてもらい、その間に50コマほど撮りまくった。
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チベットからシッキムに脱出した僧侶は17世紀のニンマ派だけでない。1950年代の「チベット動乱」では、僧侶の93%が国外追放されたという。カルマ派の第16代教主もシッキムの寺に身を寄せ、チベットに残した総本山を模して大規模な僧院(ゴンパ)を建立、1969年にここをカルマ派の総本山と定めた。だが中印戦争が停戦になり、インド政府は中国政府を刺激することを怖れ、教主がこのゴンパに入ることを許さないため、総本山は今も教主不住のままという。
僧侶は国外追放だったが、命を奪われたチベット系住民の数は信じ難いほど多い。中国政府が公表した「殲滅した反乱分子」は24万人、人権グループの推定では120万人とも言われる(何れも周辺地域を含む)。これだけの人間を「殲滅」(せんめつ)した軍事国家に、国内の少数民族や周辺国が神経を尖らせ続けるのは当然だろう。ちなみに旧日本軍も「敵ヲ殲滅シ‥」を連呼した。「殲滅」という用語には「みな殺し行為を誇る気分」が漲る。戦争当事者になると言語感覚までマヒするのが恐ろしい。
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エンチェイ・ゴンパはガントク町外れのニンマ派の僧院。西に傾いた陽が空気を和ませ、その風がタルチョ(祈祷旗)を揺らす。マニ車を回しながら長い参道を歩くと、無信心者でも功徳を願う気分になる。無邪気に遊び回る小坊主の姿も微笑ましい。
ダージリンやシッキムの僧院で目に付くのが少年僧。小学生から中学生の年代で、僧院の宿舎に住み込んでいる。親の宗教心から修業に預けられた少年もいるだろうが、大半は貧しい家庭の「口減らし」で出された少年ではないだろうか。元来宗教施設にはそうした救護・教育施設の役割があり、貧しい階層の人たちが宗教を有り難く思う理由になっているのではないだろうか。
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前号のダージリン篇で「ネパール人がヒンズー教からチベット仏教に転じ・・云々」と書いた。観光でチベット仏教の僧院ばかり見たので、ネパール系住民もチベット仏教徒に改宗したと早合点したが、ヒンズー教は生活習慣みたいなもので、彼等がヒンズー教を捨てる筈がない。小生がヒンズー教の施設に気づかなかっただけ。前言撤回します。
1886年にチベット軍を撃退した英国軍が、そのままガントクに居すわり、直後の1894年にシッキム王国がガントクに遷都した。英国にスリ寄ったとしか思えないが、英国にとっては「甘い汁」だったチベット交易が消失し、特にウマ味はなかった筈。それでも20世紀半ばまでシッキム王国を保護し続けた。現在のガントクは人口2万9千の小都市だが、ビルが立ち並ぶメインストリートはなかなか立派。大英帝国最後のガンバリの痕跡だろうか。
1975年に王制は廃されたが、革命が起きたわけではない。国王が米国に逃れたのも「ヤンキー王妃を追って」の個人的事情だったようだ。旧王室のメンバーは今もガントクの「王宮」に住まい、特権的な立場を保証されていると聞く。(インド政府にとっても、それが無難なのだろう)。我々が泊まったホテルもそのスジの経営らしく、ロビーに歴代国王・王妃(ヤンキー妃も)の肖像が掲げられ、俗離れした雰囲気の紳士淑女がたむろしていた。国王以外の皇族は王政廃止を望んだとの噂もあり、王国の幕引き=利権の実質的保全、という周到な計算があったのかもしれない。
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シッキムからブータンに陸路で移動するには、いったんインド平原に下りなければならない。6日ぶりにモワッとした熱気に襲われ、交通量の多い街道で追い抜き競争に肝を冷やす。中間地点のマルバザールで昼食。北インドのホテルや旅行者用レストランの食事はもっぱら中華風のビュッフェで、衛生的にも違和感なく、ハラをこわすこともなかった。
昼食を終えて隣のバスターミナルをぶらつく。午前中で授業が終わったのか、スクールバスから路線バスに乗り換える女生徒たちで広場が華やいでいた。制服の生徒たちは上流家庭の子女だろうが、元気でのびのびとした姿が好ましく感じられた。
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