馬遼太郎の「草原の記」を読んで、行ったことのないモンゴルに強い郷愁を感じた。たまたま見たツアー広告の旅程に、司馬が泊まった南ゴビのツーリストキャンプが入っていた。まだ会社勤めの身で、長めの夏休みをとるのに気が引けたが、多少のわがままを言える年齢にはなっていた。
モンゴル人力士は日本人と区別がつかないし、蒙古語は日本語と似ているという。ジンギスカンが実は源義経だった、という伝説さえある。だが、地理的・人種的には近いものの、実際に行ってみると、モンゴルと日本は異質な国である。モンゴル人は騎馬民族の伝統を引き継ぎ、今も遊牧生活が基盤だが、日本人の基盤は、それと逆の特性を持つ稲作文化で、狭い土地から離れられない。
13世紀、ジンギスカンの建てた帝国は、世界の半分に覇権を及ぼした後、忽然と姿を消した。その後7百年間、遊牧の民は、中国やソ連の政治的支配に頓着せず、何事もなかったように草原を移動し続けた。
我々が訪れた1997年は、前年の選挙で共産党政権が倒れ、民主化が一挙に進んだ時期で、首都ウランバートルには近代的なビルが建ち始めていた。地方の観光開発にも熱が入っていたが、草原の風景と、そこに暮らす人々の生活は、数百年前と変わっていないように思えた。
関空から直行便で3時間、横綱の通勤圏である。旧ソ連圏特有の無骨な空港ターミナルと無愛想なイミグレーションを通ると、日本の農村のオッサンと娘さんのような運転手と現地ガイドが出迎えてくれた。
市街は旧ソ連流の頑固なビルやアパート群が立ち並び、町角にレーニン像も立っていた。議事堂広場の立派なオペラハウスの壁面に、日本人よって建てられた旨を記したパネルが埋め込まれ、この地に送り込まれたシベリア抑留者の歴史を物語っている。
最近のデータでは、首都の人口は百万に膨れ上がり、Googleの空中写真を見ると、ビルの密度も濃くなったようだ。JICAのボランテイアが殺害される事件も起き、草原の国も、否応なく近代化・都市化に巻き込まれたと知らざるをえない。
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ウランバートルから500km、南ゴビへ飛ぶ。司馬はツーリストキャンプ前の草原に着陸したというが、我々はダランザドガド空港(?)からバスでキャンプに移動した。未舗装どころか、地ならしもしてない草原をバスは無遠慮に突っ走り、椅子にしがみつかないと天井に頭をぶつける。
ツーリストキャンプでは、遊牧民の伝統的な移動式住居、ゲル(包)に泊まる。フェルト(羊毛)製テントの中に木製ベッドを並べた野趣満点の宿舎で、シャワーもないが、空気が乾燥して汗をかかないので、苦にならない。ラクダ砂漠、鷲の住む渓谷、馬が駆け巡る丘陵を訪れたり、遊牧民のゲルで馬乳酒をごちそうになったり、さばいたばかりの羊肉の伝統料理を食べたり、ホーミー(一人で同時に二種類の声を出して歌う)を聞いたりして、初体験づくめの二日間を過ごした。
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旅の後半、ウランバートルから南西350kmのブルドを訪れた。南ゴビより緑が濃く、水も豊かで、出来たばかりのツーリストキャンプには、冷水ながらシャワーがあった。ここから13世紀のモンゴルの帝都、カラコルム(ハラホリン)の史跡が近い。700年前はこの辺りまで「首都圏」だったかも。
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13世紀、チンギスハーンを継いだフビライが築いた帝国の首都がここにあった。だが、世界の半分を支配した痕跡は何も残っていない。騎馬民族の帝国は、草原に幻のように現れて、消えた。発掘調査で見つかったのは石の亀だけで、その場所が宮殿跡とされた。近くのチベット仏教寺院は、宮殿の廃墟から掘り出した石や瓦を用いたものと推定されている。
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