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ウズベキスタン 旅をした時   1999年8月
アップした時  2009/4/5

「シルクロード」と聞くと、いにしえの東西交易に思いを馳せ、ロマンチックな気分になる。だが、「シルクロード」は、1877年にドイツの地理学者リヒトホーフェンが言い出したもので、その概念に異を唱える学者もいるようだ。何れにせよ、当時の商人たちはそんな呼び方を知らなかったし、街道を歩き通した商人がいたわけでもない。

「シルクロード」にはオアシスが点在したが、定まった「ロード」はなかった。オアシスのバザールを辿る隊商の痕跡は、たちまち風に吹き消され、砂に埋もれた。運ばれた商品はバザールで取引され、買った商人が次のオアシスに運んで売った。そんなリレー式の商売が、シルクロード交易の姿だったようだ。ウズベキスタンの旅で、そのことが腑に落ちた。

オアシスの支配者は、しばしば入れ替わった。古代はソグド人、8世紀はアラブ人、10世紀はティルク人が主人公だった。13世紀に蒙古人が侵入して全てを破壊し去った後、14世紀にこの地に興きたティムール朝が、オアシス都市を再興した。

140年続いたティムール朝も、北から侵入したウズベク人に滅ぼされた。その国も19世紀に帝政ロシアに支配され、革命後は旧ソ連邦の一部となった。1991年の独立後は経済再建の苦闘が続き、歴史遺産に依存した観光事業を進めつつ、鉱工業の開発を急いでいる。しかし、現地でボランテイアをしている友人の話を聞くにつけ、旧ソ連の洗礼を受けたイスラム世界の人心の複雑さには、ただ嘆息するしかない。

ウズベク地図

ブハラ

ブハラは「僧院」を意味するという。1512年にこの地を都と定めたウズベク族は、360のモスクと、80のメドレセ(神学校)を作った。今日我々が見るブハラの史跡の中には、それ以前に建てられて砂に埋もれ、蒙古の破壊を免れたものもあるが、大半は16世紀のブハラ・ハーン国時代のものである。

ブハラは、シルクロードの交易場所としても賑わった。タキ(バザール)や商人宿は、モスクや僧院の宗教施設に入り混じって、2平方kmほどの旧市街に密集している。案内人に導かれるまま迷路のような通路を辿ると、方向感覚が失われ、思いがけない場所にヒョッコリと出て、魔法にかかったような気分になる。

歴史地区を遠望 アルク城。圧政の限りを尽くしたと言われ、血のにおいがする

9世紀のイスマイール・サマニ廟。現存するイスラム最古の建築物

マゴキ・アッタリ・モスク。破壊され作り直された跡が3層認められる。 崩れかけた城壁
1万人収容のカラーン・モスク。左のミナレット(塔)は1127年に作られた カラーン・モスクの内側 ミル・アラブ・メドレセはソ連時代も開校 昔の交易所もこんな雰囲気? カタリダシュ・メドレセ ラビハウズの池 夕日に映えるメドレセ
ブハラ - 続き
タキ(バザール)の外観 タキの内部 男はチャイで暇つぶし 市場にて ティムールの像 史跡で催される民族歌舞。胡人の美女に司馬遼太郎も魅了された。

サマルカンド

サマルカンドは、「青の都」の別名を持つ。ブハラでは土レンガの黄色が砂漠を感じさせるが、サマルカンドでは、青タイルの繊細な輝きが心の奥に染み入り、砂漠の中に居ることを忘れてしまう。

一般民衆にとって、宗教は「言葉」だけでは成り立たたない。偶像崇拝を禁ずるイスラム教にあっては、信者に「神」を感じさせる仕掛けは、心を奪う建造物であり、壁の文様であり、タイルの色である。サマルカンドを歩くと、そのことを実感できる。

日本の仏教建築は、年を経て彩色を失い、その枯淡さが「ありがた味」を増すが、イスラム建築では、タイルが剥がれたり彩色を失ったりすれば、威光が失せてしまう。サマルカンドが世界遺産に登録されたのは2001年だが、我々が訪れた頃は、それに先駆けるように、あちこちで修復作業が進んでいた。作業現場には、焼き上がったばかりのタイルの荷が積まれ、空の青とあざやかさを競っていた。

蒙古に破壊されたアフラシャブ遺跡

蒙古の破壊を免れた天文台。巨大な六分儀で暦を管理した。

ティムールの一族が眠るグリ・アミール廟。内部の修復には3kgの金が使われたという。 シャーヒズィンダ廟群。ここにもティムール一族の霊廟が並ぶ。
シャーヒズィンダ廟群の青タイルの壁面 廟群の外形 市場裏のモスク 修復の終わったドームとミナレットの鮮やかなタイル 修復中のモスク

サマルカンド  -続き

市場脇の古いモスク サマルカンドの夏は西瓜の季節 市場の風景 焼き肉屋台

タシケント

ウズベキスタンの首都タシケントも、古代からのオアシス都市だった。蒙古軍による破壊後も、シルクロードの要衝として再建されたが、現在のタシケントには、遺跡らしいものが殆ど見られない。1966年4月26日に発生した直下型地震によって、崩壊した為である。

復興には、旧ソ連各地から数万人が動員され、短期間で近代的な都市に生まれかわった。体制の勝利として宣伝されたというが、旧ソ連崩壊の8年後に訪れた我々は、米国が急速に接近する様子を目撃した。その後、もし米国がイスラム圏を敵に回すことがなかったら、世界は別の展開をしていたかもしれない。

地震後に建設された人民友好宮殿。
噴水は市民のプール代わり
市の中心部 地震慰霊碑と新婚夫妻 米国への憧れ? 日本人抑留者によって建てられたナヴォイ劇場

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