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パキスタン - 天と地の旅  旅をした時 2008年6月 アップした日 2008/7/19

「天と地の旅」とは、天に届く山々と地上の歴史、風物を訪ねる旅、というほどの意味である。パキスタン北部は7000m級の名峰が林立し、ガンダーラの仏蹟もある。長寿の里フンザの村人にも会ってみたい。だが、テロ騒ぎで旅行者が激減、パキスタン行きのツアーが成立しないらしい。そんな折、パキスタン在住の友人からフンザ旅行の誘いがあった。どこでどんな目にあうかわからぬ日本より、リスクの高い場所が分かっている外国の方が安心な昨今である。そんなわけで軽装にデジカメを抱え、11日間の旅に出た。

パキスタン北部の地図を見ると、国境線がさだかでない。中国・インド・パキスタンの複雑な三つ巴の中のこの地域は、20世紀後半まで小王国が割拠していた。英国支配時代はインドのカシミール地方の一部とされていたが、パキスタン独立に際して住民がパキスタンへの帰属を主張し、その暫定的な状況が今も続いている。中・イン・パの緊張は消えていないが、人や物資の往来にはそれほど厳しくないようだ。アフガニスタン、タジキスタンと接するこの地方は、国際テロリストの巣窟とも見られ、道路上の検問も頻繁だが、旅行者が見る限り、人々の暮らしは平穏そのものである。


首都 イスラマバード(以下イスラマと略す)

成田を昼前に発ってバンコックで乗り継ぎ、午後11時にイスラマ着。飛行機から出ると熱気がモワッと肌にからみつき、さあパキスタンに来たぞ、と思う。

イスラマは1963年に首都として機能し始めた人工都市である。数千年の歴史と1億4千万の人々の暮らしの重みがのしかかり、混沌状態が持ち味のようなパキスタンの中で、整然と区画化されて緑豊かなイスラマの町なみは、違和感を感じさせないこともない。

イスラマは建設ラッシュである。9・11以来、米国はパキスタンを目の敵にしているものと思っていたが、市街のあちこちで目につくのは、米国系の銀行、ホテル、ハンバーガーやフライドチキンの看板であり、市民の飲み物もペプシである。旧ソ連圏でも同じ現象を見たが、旧敵国を自国の経済圏に取り込もうとする国家戦略は、ここでも一貫しているようだ。(拉致当事国にも早晩マクドナルドの看板が立つだろう)。もっとも、パキスタンを走る車の95%は日本ブランドで、日本の自動車メーカー各社がパキスタンに工場を持っているという。自動車が工業国日本の最後の砦のような感じになってきた。

@北側の丘、ダマネコー展望台から碁盤目状の市街を望む。 A高層ビルも見える。 Bアラビアのファイサル王の援助で建立された巨大なモスク。 C大統領官邸周辺は警備が堅く、一般車両は入れない。 D南側の丘に建てられた独立の英雄記念碑  EFG路地を入った雑貨店街。新物・古物、何でもある。 H商店街に突然歓声が上がり、肩車に乗った老人が練り歩いた。何かの祝い事らしい。 I魚屋の奥で青竜刀に似た包丁で魚をさばく。見事な技であった。


ガンダーラの史跡、タキシラ

ガンダーラの仏蹟はもっと奥地と思っていたが、イスラマから車で西へ30分ほどのタキシラが本場と現地に行ってから知った。友人のアレンジで運転手付きレンタカーを1日雇ったが、翌日からのフンザの旅に体力を温存すべく、要所だけを見て早々に引き揚げた。早目に仕事が終わったことに運転手がしきりに恐縮し、チップを辞退したのにちょっと驚いた。

@タキシラ博物館、地元の遺跡から出土したガンダーラ仏の展示には目を見張る(館内撮影禁止)。 Aダルマラージカー遺跡は、紀元前3世紀に作られた最も早い時期の仏教寺院跡。 Bシルカップの都市遺跡。ギリシャ人によって紀元前2世紀から作られた。仏教遺跡にインドとギリシャ文化の初期の融合の跡が見られる。 C発掘済み遺跡の周辺は農地で、水牛がのんびりと水を浴びる。更に発掘すればいろいろな物が出てきそうだ。 D史跡では外国人は200ルピア(約350円)の入場料を払う。知識豊かで英語の確かなガイドもいるが、発掘品の押売りが目的の者も多い。 EFモーラ・モラドゥ遺跡のストゥーパの基部。 GHIジョリヤーン遺跡のガンダーラ仏が最も見ごたえがあった。


「天」への旅

イスラマからフンザまで約600km余。途中のギルギットまで飛ぶ国内便もあるが、天候次第であてにならず、途中1泊してもバスの方が確実という。道路は舗装されているが、険岨な山道を生活物資満載のトラックや人間満載のバスなどが頻繁に行き交い、強引な追越し・割込み御免の神業的な運転が頼りである。

1日目は北部の玄関口、チラーズまで14時間、2日目はフンザの中心地カリマバードまで、カラコルムの山里を眺めらがら半日の旅である。高度を上げるにつれ、まとわりつく熱風が爽やかな高原の空気に変わり、別天地フンザに来たことを肌で感ずる。

@AB車は荷物も人間も満載が原則。 CD街道筋には約20km間隔で村があり、道路と市場が混然となる。 E橋は少なく、川向うへは心細いケーブルが頼り。 Fインダス川に出会った。チベットの聖山カイラスを源に5000kmを流れるが、この辺りでは驚くほど流れが早い。 G高度を上げるにつれ、インダスの谷が深まる。 H険岨な山道でも大事故は滅多に起きないという。 I夕立ちで土砂崩れに遭遇。村人が出動して迅速に対応。土砂が多少ならされると、我々のバスは客を乗せたまま突っ込んだ。車内に悲鳴が上がったが、ガツンと乗り越えて何事もなかったように走り続けた。

J岩に描かれた仏像。玄奘三蔵もこの辺りを通ったらしい。 K日没直前に世界九位のナンガ・パルバット(8125m)と出会えた。Lチラーズで一泊。長距離トラックもここで休養。Mインダスの急流。 Nナンガ・パルバットの北面眺望ポイント。 Oヒマラヤ(右)、カラコルム(正面)、ヒンズークシュ(左)の三大山脈のジャンクション・ポイント。 Pフンザの谷が近くなった。 Qラカポシ(7786m)を眼前に望むレストランで昼食。山頂まで高度差6000mの絶景。 RSフンザの中心地カリマバードが近い。この地方のイスラム教徒にはイスマイル派が多く、女性の服装もやや開放的。


天上の山々

7千m級の山を撮るには、峰が見える場所まで行くのが大変で、トレッキングで高山病にかかったりする。だが、フンザでは、人々が住む里から労なくして名峰を眺めることが出来る。里から山頂までの標高差は5千m以上ある。上高地(標高1500m)から穂高岳山頂(3190m)の標高差を思えば、その圧倒的迫力は当然でもある。

山岳写真の撮影は日の出と日没時と相場が決まっている。太陽が低い時間帯は山が赤く焼け、山襞の凹凸も浮かび上がり、ダイナミックな写真になるチャンスが多い。山岳写真界では未だデジカメが異端視されており、小生も一応フィルムカメラを持参したものの、結局、その場で結果が確認できるデジカメのシャッターばかり押し続けた。

@〜Fラカポシ(7796m)。 @昼のラカポシとフンザの谷。 A午後の山頂付近。 B大雪崩を捉えた。 CD残照。 E夜明け前。 F日の出。 G昼のディラン峰(7267m)。 H日の出のディラン。 I日の出のゴールデンピーク’(7027m) 

J夕方のゴールデンピーク。 Kウルタル(7388m)。 LMホッパー氷河。 Nフンザ峰と乙女の指(この方角からは「水掻き」が付いて見えるが)。


中国国境、クンジュラブ峠

カリマバードから中国国境のクンジュラブ峠まで、カラコルムハイウェイを半日走る。峠の標高には異なった数字もあるが、ここでは標高4780mとする。何れにせよ、小生にとっては最高到達地点である。

ハイウェイ沿いのフンザの集落をいくつか通り過ぎ、標高2800mを超えると人家がなくなる。1人4ドル相当の国立公園入園料を払って更に進むと、4000mを超えるあたりで路傍に雪が見え始め、やがて開けた台地に出ると、そこがクンジュラブ峠である。峠には標識があるだけで、両国の国境検問もない。この高度では酸素が平地の半分しかなく、バスを降りると足もとがフラつく。低酸素障害を避けるため、峠の滞在は20分ほどに留めた。

@強風が谷間を吹きわたり砂塵が地を這う。 A草の乏しい高地でも羊の放牧が行われている。 B落石注意のサインが真に迫る。(これは合成写真だが)。 C中国との物流は多いようだ。 D標高4000mを超える。 Eカザフスタンのアルマトイ行きの道標もある。 F峠の標識。 G中国側の景観。 Hパキスタン側の景観。 I峠に遊ぶマーモット(地リス)。

峠からフンザへの帰途、Jフンザ最初の宿場町ススト。 KLM天候が回復して、カラコルムらしい風景が戻った。 Nフンザの集落。


フンザの里

我々のガイドはフンザ出身の青年で、暮らしぶりの話を聞いたり、親戚の家などを見せてもらうことが出来た。フンザの人たちは、自分たちこそアレクザンダー大王東征時に残留した人たちの末裔と信じているらしい。フンザの谷にはいくつかの異なった種族の集落があり、異種族間の通婚には今も制約があるようだ。結婚相手は今も親が決めるようで、婿が都市に出稼ぎに出て、時々親元で暮らす嫁のもとに通う、一種の通い婚が多いという。それでも婚姻関係が乱れないのは、個人生活を強く律するイスラムの教えが機能しているのだろうか。

@カリマバードの丘に残るフンザ王の城。1974年まで王が居住した。 A城の案内人の見事な髭面。 B城から村の段々畑を見下ろす。 Cフンザの民は牛を追い畑を耕す。 DEF石積みの住宅。居室の周りを畜舎で囲み、冬の寒さをしのぐ構造。 G居室の内部。布団を敷いた床に座り込む。 HIフンザ伝統料理の一部。長寿の秘密は油を使わない料理にあるようだ。味はマイルドで我々の口に合う。特にジャガイモなどの野菜が美味い。

長谷川記念学校

カリマバッドの裏山、ウルタル峰(7338m)で1991年に遭難した日本人登山家、長谷川恒夫の遺族と友人たちの拠金により、長谷川記念学校が設立された。現在は幼稚園から高校までの400名余の生徒が英語で教育を受けており、高レべルの学校として声価が高いという。

我々は朝礼を見学させてもらったが、偶々同行者の中に長谷川が通った高校で先生をしていた方がおられ、全校生徒を前に印象深い訓話をされた。このようなかたちで日本人とパキスタンの人たちが絆を深めて行くのは素晴らしい。

@長谷川学校の全景。右側に校舎を増築中。 A始業の鐘をたたく。 B校庭に整列した生徒たち。 C高学年の生徒。 D幼稚園の教室。同年の日本人の子供よりもませた感じがする。


フンザの人々

小生は人物写真を撮らないのだが、パキスタンでは無遠慮にレンズを向けさせてもらった。フンザの人に限らず、パキスタンの人たちは、10人が10人、絵になる顔をしている。民族的に彫りの深い顔つきで、大きくて表情豊かな目のせいもあるだろうが、呆けた顔や下品な顔を見ないのは、パキスタン人の生き方に起因する何かがあるような気がしてならない。

@ABCフンザの一家。夫75歳、妻(三人目)43歳。子供たちは老人の孫ではなく実子。あと一人作って打ち止めにする由。 D聖母子を思わせる。 Eオテンバ娘たち。 F男の子たちも神妙に写真に収まってくれた。 Gギルギットの老人。 H伝統音楽の演者。 Iフンザ人ではないが、ラホールを往復してくれたドライバー氏。68歳の由。


ムガールの帝都、ラホール

フンザからイスラマに戻る飛行機が予定通りに飛び、帰国まで1日半の余裕が生じた。古都ラホールの見学を薦められたが、一人旅の自信がなく、日本人経営の旅行会社に頼み込んで、小生専用のガイドと運転手を付けてもらった。贅沢に聞こえるが、費用は日本での1泊2日の一人旅とあまり違わなかった。

ワガー国境の国旗降納セレモニー

ラホールから東へ30km行けばインドとの国境である。日没時に両国の兵士が共同で行う国旗降納セレモニーが名物と聞き、イスラマから現場に直行した。国境の道路は午後3時で閉鎖され、国境を挟んで両側に設けられた見物スタンドに両国の観客が集まる。両国のスタンドでは大音量スピーカーで国の讃歌が流され、両国の観客が夫々バンザイを叫び、応援団も飛び出し、サッカーの因縁試合のような大興奮が現場を包む。やがて日没時になると、両国の兵士が国境を挟んで示威行進を行い、同時に国旗降納をした後に握手してセレモニーを終わる。両国の関係が険悪になると、共同セレモニーは中止になる由。

@ABワガーに向かう街道で。 Cインド国境のゲート。 DE観客スタンド。イスラムでは男女同席を許さない。 F応援団長が走り回って盛り上げる。 G時間が近づくと儀仗兵が数名ずつ入場。 H足を高く揚げて地面を強く踏むのが伝統的な示威。 Iインド側兵士も同じように示威。観客数はインド側がはるかに多い。人口比6:1では仕方がない。。

J両国の兵士が同時に国旗を降納する。 K兵士代表が握手して国境を閉じる。 L式が終わり夕闇が迫る。 M帰り客を待つバス。 N1馬力のエコ車両も家路につく。

ラホールの文化遺産

12〜18世紀にインド亜大陸とその周辺に覇権を及ぼしたムガル帝国の帝都だったラホールには、多くの文化遺産が残されている。修復が進まず半ば廃墟のような史跡もあるが、西方のイスラム史跡とは異なったスケールの大きさから、往年の栄華を偲ぶことが出来る。半日のラホール観光ではとても見きれないが、猛暑の中ではこの辺りが体力の限界でもある。

@〜Dラホール城。 鏡を使った女性居住区Bや、象に乗った王侯が出入りするスロープC、装飾壁Dなどが面白い。 EF10万人を収容するハードシャーヒー・モスク。大理石の床に寝ころぶと気持ちがよい(メッカの方角に足や背を向けて寝てはならない)。 GHI17世紀に作られたシャハーンギール廟。 

Jシャリマール庭園。噴水がふんだんに用いられている。 Kシャハーンギール廟に隣接する隊商宿(キャラバンサライ)の跡。 L〜Nラホールからイスラマに帰る途中のロータス・フォート。ムガル帝国から一時的に王位を奪ったアフガン系民族のツール朝が築いた城塞。 西から攻めてくる外敵に備える構造が面白い。N刑場。頂上の穴から罪人を落とし、下の檻に飼われたライオンに食わせたという。


その他の写真

上の記事で掲載しきれなかった写真をご紹介したい。

@〜B小生は「鉄ちゃん」(熱烈な鉄道ファン)ではないが、旅で時間があれば駅を見る。今回はラホールで駅の近くを通りかかったので、車を止めてもらった。ちょうど普通列車が出るところだった。
Cタキシラに行く途中の踏切で保線工事をしていた。パキスタンではこのような作業も民族服のままでするらしい。
Dパキスタンに日本の政党の支部があるわけではない。日本の中古車が旧所有者の塗装のまま走っているが、たまに愉快なのが目に入る。


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